第三地区は12町会からなり、市内でも屈指の文教地区。
学校、あがたの森公園、市立美術館など大きな施設が多数存在しています。
地区内で発見された県町遺跡では、弥生から平安にかけての住居跡が複数見つかっており、大きな集落が形成されていたとされます。また近くに薄川や女鳥羽川があり、昔から水が豊富な地区でした。
その豊富な水を利用した製糸工業が明治中期ごろから発展し、片倉の松本製糸所は日本一の工場にまでなりました。
工場の発展と共に、インフラ(電力の供給、現在のJR大糸線の敷設、道路や路面電車の整備)、教育(松本商業学校、松本高等学校、松本第二中学校の開設)、金融(日本銀行松本支店の開設)の充実が図られました。松本の近代化は第三地区を中心に進んでいったと言っても過言ではありません。
公民館学校サポート事業として、隣接区も合わせ、8つの小中学校、高校とあがた児童センターで、「あがたの森未来サミット」を開催しています。
年代の垣根を越えていかに地域に貢献できるか、意見交換を行う画期的な試みである。地域、それぞれの学校の児童・生徒のつながりを強くするため、「あいさつ運動」を各学校やあがたの森などで行っています。
今では児童・生徒だけでなく、地元の人も参加。地域ぐるみの活動となっています。
そして同地区は、大きな転換期を迎えようとしています。
大型商業施設「カタクラモール」の再開発に伴い、イオンモールの建設が始まるからです。
このため同地区はまちづくり協議会を開き、市やイオン側に地元住民の意見を伝えています。
工事中や完成後の交通渋滞や通学路の確保など、交通事情の問題、高齢者の割合が高く、工事期間中に買い物弱者が出る問題など不安点もありますが、多くの人は新たな大型の複合ショッピングモールができることで、街に活気が出ることを期待しているといいます。
明治に始まった松本の近代化から百数十年、またもや第三地区を中心に松本の未来は動きだしていきます。
第三地区連合会長 田中 伸季 さんより
第三地区は12の町会で構成され、やまびこ道路と駅前大通りの2本の幹線道路が走る松本市東部の交通の要衝となっています。またあがたの森や美術館、多目的広場などの文化施設や数多くの教育機関が集まる緑豊かな文教地区でもあります。この地区は製糸業の発展と共に街が形成されてきました。今後のカタクラ再開発で訪れるであろう大きな変化の中でも、子供たちが安心して暮せる地域をつくることが、私たちの大きな役割だと思っております。
松本偉人伝
片倉工業の創業者・片倉兼太郎氏の実弟今井五介氏は、明治23(1890)年に片倉松本製糸場の初代所長に就任した。
設立当初は3000坪(9900平方㍍)の敷地に48釜という小工場であったが、大正9(1920)年には3万坪(9万9000平方㍍)の敷地に1092釜、従業員1500人という日本一の製糸工場に育て上げた。
この巨大な工場を動かすため、電力供給をはじめとするインフラ整備にも尽力。県庁所在地でもない松本に日本銀行があるのは、この日本一の工場が巨額のお金を動かしていたからだ。
五介氏一家は松本製糸場に住み込み、製糸場の従業員と同様に工場労務に携わり、自ら率先して働いたという。
今も残る生物科学研究所で、蚕の品種改良を行い、「大日本一代交配蚕種普及団」を設立。世界一の品質と評される絹糸を作り上げた。
また経営難に陥っていた私塾・松本戊戍(ぼじゅつ)学校を支援し、「松本商業学校(現松商学園)」として再興。
難航していた現JR大糸線の松本―大町間の工事を、自ら技師長となり片倉の従業員を率いてわずか1年7カ月という短期間で完成させた。
明治41(1908)年には松本商業会議所(現松本商工会議所)の初代会頭に就任、34年の長きにわたり務め上げ、「商都松本」の礎を築いた。
このように五介氏は松本の近代化に大きな役割を果たしてきた。
(写真提供・片倉工業㈱)