鎌田の「かま」とは、水の湧き出る釜状の地形のことです。

奈良井川と田川に挟まれたこの地区は、昔から湧き水が豊かでした。今でも地区内には、水量豊富な大小の川が縦横に流れ、住宅街の中にも湧水池があります。
鎌倉時代末期の1334(建武元)年に、小笠原貞宗が信濃守護職となり、この地にあった井川城を居城として、政庁としての機能も持たせたことから、周辺には城下町が形成されました。現在は深志神社(松本市深志3)に合祀(ごうし)されている天満宮も、元は貞宗の孫である長基が、京都の北野天満宮から勧請したもので、その社殿は最初鎌田地区にありました。

1460(寛正元)年、貞宗から数えて8代目の小笠原長朝が、戦国時代への気運から軍事上の理由で、居城を山城である林城へ移したことで、井川城は支城となり、1550(天文19)年、甲斐(山梨県)の武田信玄の侵攻によって、200年以上続いた城としての役割に幕を下ろしました。現在の井川城の櫓(やぐら)跡とされる所には土塁が残り、市の特別史跡に指定されています。

守護職小笠原氏が代々祈願したという正福寺は、明治の廃仏毀釈(きしゃく)で廃寺となりましたが、その中の観音堂だけは難を逃れ、鎌田北向観音堂として、地元の人たちによって維持されてきました。

堂内には400年以上前に造られた仏像、円空や木食山居の作とされる彫像などがあります。

地区内の両島町会には、「お八日念仏と足半(あしなか)草履」の行事が伝えられています。毎年2月8日の早朝に戸口で、もみ殻、米ぬか、唐辛子、サイカチの実などを焼く「ぬかえぶし」を行い、なった縄にわらを編んで、1㍍余りの巨大な足半を造り、仏前に供えます。

その後車座になって巨大な数珠を回しながら念仏を唱え、終わると足半を町会の南北両境の樹木に1つずつ、つるします。

足半とは、水田作業に使った足の半分の大きさのわら草履であることから、大足を持つ巨人が住むと見せかけて、疫病神などの進入を防ぐ意味があったといわれています。
陸上自衛隊松本駐屯地のある所には、大正末期から昭和初期にかけて、民間遊覧飛行場としての笹部飛行場がありました。また1928(昭和3)年からは競馬場も併設されて、年2回開催されていました。

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