島内地区は梓川扇状地の末端に位置し、東側には山間部もありますが、総面積約14平方㌔㍍の大部分が、梓川、奈良井川、槫(くれ)木川の3つの川で囲まれて、島のように見えるため、古くから「島内」と呼ばれていました。

度重なる梓川の氾濫で、川の流路が変わるたびに所属郡も変わりましたが、江戸時代は松本藩領の安曇郡成相組で、1874(明治7)年に11カ村が合併して、「嶋之内村」となった時は、南安曇郡に属していました。その5年後に東筑摩郡に編入して「島内村」となり、1954(昭和29)年に松本市と合併しました。

人口は1万2269、世帯数は4747(2013年3月1日現在)。

水稲の作付面積と収穫量は市内一で、広大な水田地帯の中を、梓川より取水した勘左衛門堰(せぎ)、拾(じゅう)ケ堰、島堰、青島堰、高松堰などが、それぞれ幾つかに分かれて流れています。
また地区内には、県松本家畜保健衛生所、県松本食肉衛生検査所、松本児童園、県松本青年の家、市音楽文化ホール、松本クリーンセンター、ラーラ松本、エコトピア山田、市リサイクルセンター、あずさセンターなど、県や市の施設が多くあり、他の市町村との間を結ぶ国道19号や長野道、JR大糸線や篠ノ井線などが走る交通の要衝でもあります。
松本平を代表する穀倉地帯である島内地区の歴史は、梅雨期と台風の季節に増水を繰り返す、梓川の水との闘いの歴史でもありました。
1757(宝暦7)年の「梓川大満水記」には、当時の氾濫の様子が書かれていて、その後も近年まで、多数の水害記録が残っています。1946(昭和21)年の洪水で、水防作業中に濁流にのまれて犠牲となった、3人の青年の「殉職の碑」が、堤防近くの水田の中に立っています。

山間部の山田は、古代信濃最大の窯業地帯の一部だった所で、「山田丸山古窯址群」と呼ばれる、奈良時代から平安時代にかけての、須恵器窯の跡が多く残っています。

焼き灰による自然の上薬で、独特の色合いを生み出す陶芸技術は、現代でも「山田炎の会」のメンバーたちによって受け継がれています。
下田には、戦国時代に守護職小笠原家の家臣であった平瀬氏が、甲斐(山梨県)武田氏の侵攻に対して、徹底抗戦を展開した山城と伝えられている「平瀬城跡」があります。

 

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