松本城を地区内に有する中央地区は、松本城周囲の16町会からなる。

かつての城郭でいうと、ほぼ三の丸(城内)の範囲で、城下町にちなむ町名が多く、狭い道路や「食い違い」など戦略道路の名残が随所に見られる。

また地区内は湧水が豊富で多くの井戸が現存しており、市民の生活や産業の発展を支えてきた。

史跡松本城西総堀土塁公園。土井尻地区に残されていた西総堀土塁を、歴史公園として整備し、長さ約20㍍、高さ約4㍍の土塁を復元してある。写真は中央地区まち歩き講座での見学風景。

 

地区は松本城と共に発展してきた。松本城は戦国時代の16世紀初頭に造られた深志城が始まりといわれ、その後、武田信玄が信濃支配の拠点とした。

1582(天正10)年に小笠原貞慶が「松本城」と改名、その後石川数正、康長父子が本格的に城郭や城下町の整備に着手した。
明治になると、天守閣が売りに出されたが、市川量造の働き掛けで買い戻すことに成功し、取り壊しの危機を脱した。その後、明治30年代には天守に傾きが見られはじめ、崩落の危機に陥った。これを救ったのが旧制松本中学校(現松本深志高校)の初代校長・小林有也であった。

このように松本城は市民の手によって守られながら、1936(昭和11)年に国宝に指定され、今は観光都市・松本のシンボルとして国内外の多くの観光客を迎えている。

大名町通り。祭りや松本山雅、信州大歌舞伎などさまざまなパレードが行われる。写真はセイジ・オザワ松本フェスティバルでの小学生の金管パレード。

最近は近代化の流れとともに、地区内から古い町並みや歴史的建造物が失われ、城下町としての個性が弱まってきた。城下町として歩んできた歴史や伝統、文化を未来へ残すために、地区は「まずは自分たちの住んでいるこの地区に愛着が持てるように」とさまざまな活動をしてきた。

育成会は、子供たちが松本城の床を磨いたり、お城の研究員の話を聞いたりする機会を設け、愛着だけではなく「おもてなし」の心も養えるようにした。また「中央地区あるき隊」を開催し、地区内の風情や魅力のある建物や風景、後世に残していきたいものを実際に見ながらこの地区の魅力を再発見している。
松本城南・西外堀復元事業、松本城大手門桝形(ますがた)周辺整備事業が計画され、まさに変動の時期を迎えつつあり、歴史や伝統を反映しつつ、少子高齢化を見据えた「これからのまちづくり」が重要な課題。より多くの人々に参加してもらいながら、こうした課題の解決に取り組む考えだ。

もちつき大会などを通じ地区住民同士のコミュニケーションをはかる。

 

 

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松本城のお堀でのスケート風景
現在の地方裁判所がある場所にあった市営プール。飛び込み台や50㍍プール、子供用プールがあり、昭和50年くらいまで市民に親しまれていた。

 

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松本市博物館。明治39(1906)年、「明治三十七、八年戦役紀念館」創立。昭和23(1948)年から現名称。地域の考古・歴史・民俗資料を収集・保存し展示している。県内では初めて博物館法による登録を受けた。
辰巳の御庭。江戸時代に松本城城主の辰巳御殿があった場所。湧き水のせせらぎ、春の桜に秋のモミジ、カタツムリのベンチもあるちょっとした憩いの場。
四柱神社。四柱とは天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)の四神で、すべての願い事がかなう「願いごとむすびの神」として全国各地からあつい信仰をあつめる。
松本城の関係者などをまつった五社と若宮八幡を合祀(ごうし)し昭和28(1953)年に松本神社と名称を改めた。もともとは城内にあったが、道路拡張に伴い現在の場所に移動した。御神木は中央分離帯の中に取り残されるような形で保存されている。
松本神社。松本城の関係者などをまつった五社と若宮八幡を合祀(ごうし)し昭和28(1953)年に松本神社と名称を改めた。もともとは城内にあったが、道路拡張に伴い現在の場所に移動した。御神木は中央分離帯の中に取り残されるような形で保存されている。
松本城の西側駐車場の花壇を整備する中央地区の人々
松本城の西側駐車場の花壇を整備する中央地区の人々

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■人口/1,244世帯、2,568人(2015年10月1日現在)
■学校、施設/松本市役所、松本税務署、長野地方裁判所松本支部、松本市立博物館、日本銀行松本支店、松本市小児科・内科夜間急病センター、丸の内消防署、松本市医師会、下町会館、ピカデリーホール、聖テレジア幼稚園
■神社仏閣、史跡/松本城、四柱神社、松本神社、白翁稲荷神社、三峯神社、今町亘理神社、安立寺、西総堀土塁公園、新井家腕木門(赤門)

 

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