橋上と神道境内、縄手には小学生が並び、日傘をさした女教師らしき人物も写るから夏の日の一日だろうか。堀には満々と水がたたえられ、今では想像できない眼鏡橋のさまが水面に写る。

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江戸時代に作成された城下町絵図を見ると、縄手通りは単にまっすぐな道が描かれ、家作はない。

この通りが今日のように松本で最も人が歩き、買い物をする商店街になったのは、神道と深いつながりがある。

市民が親しみを込めて「しんと」と呼ぶこの神社の正式な名前は、四柱神社で「よはしら」神社とよむ。

明治12(1879)年に四柱神社が現在地に創建された。 翌13年6月には明治天皇の巡幸があり、新築の神道事務分局を行在所(あんざいしょ)に定めて天皇を迎えた。

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これを機に、松本のマチの中心地にある神社には内外から参拝者が増え始めたという。

縄手通りに露店が並ぶようになったのは明治20年代頃からといわれ、これは神社から要請があったという。

神社にとってはいわば門前町と同じで、ここに人が来れば神社の参拝客も増え、縄手も参拝客が買い物をして潤う、といったところだろうか。

 

縄手通り

「カエルの街」のキャッチフレーズで知られる縄手通り。

今、女鳥羽河畔のこの通りは、市民をはじめ松本を訪れる旅の人たちがアット・ホームな雰囲気で、ホッとできるマチとして人気がある。

縄手の移り変わりは『縄手繁昌記』に詳しいが、大正4(1915)年には縄手で野菜市が始まり、10年代に入ると常設の露店が並ぶようになったという。

 

右下に写る橋は中の橋で、明治38(1905)年に架けられた。 縄手側からこの橋を渡り、新小路から中町、小池町に出られたので、当時は新小路橋とも呼ばれた。

 

竣工直後の松本市役所庁舎が写る。右下は明治43(1910)年に架け替えられた一ツ橋、橋北詰に写る小屋は公衆便所か。

ここに紹介する神道関連絵はがきを見ると、時代により異なるが、神道あり、百貨店あり、写真館あり、市役所あり、飲食店あり、公会堂あり、そして露店ありと縄手通りは、松本のマチの代表的な空間になっていた感がある。

聯隊の兵士、松高生、そしてときには県境を越えて松本に働きにきた女工、市民を含めて多くの人たちが「銀ブラ」ならぬ「縄ブラ」を楽しんだのであった。

 

書肆秋櫻舎・発行「信州松本絵葉書集成」より掲載
A4版 320ページ 定価16,800円 ISBN-978-4-921206-04-8
松本市大手4-1-25(〒390-0874)TEL.0263-36-3873

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