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中山地区は、鉢伏山(1928・5㍍)から北へ尾根が続く、宮入山(1530・5㍍)や高遠山(1316・8㍍)の山腹西側に広がっています。 面積の半分ほどは森林で、耕地も傾斜地にあることがほとんどですが、山からは幾筋もの沢が流れ、標高の高いところにも水田があります。 人口3669、世帯数1346(2012年6月1日現在)で、ソバ畑も多く、季節には一面に白い花が咲きます。

考古博物館横の竪穴式復元住居
考古博物館横の竪穴式復元住居

古くから人が住んだこの地区は、縄文時代の集落跡や、その後の時代の古墳などが全域にあり、市内の古代遺跡の約17%が集中しています。 棺護山、向畑、坪ノ内、鍬形原などの古墳群だけでも80基以上が残っていますが、明治の初めまでには200基以上あったとされています。

鍬形原古墳群の1つ中山15号古墳
鍬形原古墳群の1つ中山15号古墳

また大化の改新(645年)の前から、この地区には牧場があり、927(延長5)年に書かれた延喜式には、「埴原牧(はいばらのまき)」の名で、 左馬寮管轄の御牧(勅旨牧)として、朝廷に貢ぐ馬を飼育していたことが記されています。馬をつないでおくためにあった、3カ所の繋飼場(けいしじょう)のうち 2カ所の跡が残り、信濃国各地に16あった牧場を監視統括するための役所だった、牧監庁(もくげんちょう)の跡とされるものもあります。 全国的にも珍しい古代の牧場遺構です。

山中にある埴原城跡の石垣
山中にある埴原城跡の石垣
考古博物館内部
考古博物館内部

戦国時代の大規模な山城の形態が、よく残っているのが「埴原城跡」です。 麓の御屋敷跡から、頂上の石垣が残る主郭(しゅかく)までは約200㍍の標高差で、険しい山道が1㌔ほど続きます。 1550(天文19)年、甲斐(山梨県)の武田信玄が、当時里山辺の林城を居城としていた小笠原長時を攻略した際に、真っ先に攻めたのがこの城だと いわれています。

埴原城を落とされたことで小笠原軍は戦意を失い、林城や他のとりでが自落したとされることから、軍事戦略上の重要な拠点であったことが分かります。 小笠原長時が妻子を逃がし、かくまわせたという保福寺も地区内にあります。

中山霊園内の中山公園
中山霊園内の中山公園

市営中山霊園のある中山(836㍍)の頂上にも、その昔とりでがあり、山は近代まで「ほら貝山」と呼ばれていました。 今では季節になると赤いツツジが咲く公園となり、マレットゴルフ場や展望台もあります。

麓には市内の貴重な出土品が展示されている市考古博物館、バスの移動図書館と15万冊の蔵書がある中山文庫などがあり、地区外からも大勢の人が訪れます。

中山ふれあいひろばまつり
中山ふれあいひろばまつり
昔遊び、大人も子どもも夢中
昔遊び、大人も子どもも夢中

 

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