松本市の西方にある新村地区は、豊富な水と肥沃(ひよく)な土壌に恵まれた稲作が盛んな地域。
水田地帯として早くから開かれ、縄文時代ごろには集落が成立していたとされる。
書面上で新村の地名が初めて確認されたのは、応永7(1400)年の「諏訪下社文書」で、「新村南方」と記されていた。
明治7(1874)年に上新村、下新村、北新村、南新村、東新村の5村が合併し新村に。そして昭和29(1954)年に松本市と合併し、現在14町会からなる新村地区となった。
新村公民館は、地区内にある松本大学と近接の芝沢小学校、高綱中学校など教育機関と地区住民が情報を共有できるよう、年に4回ほど情報交換会を開いている。
また松本大学でも「縁側講座」として地域の高齢者と座談会を開き、積極的に交流を深めている。このように地元住民の「生の声」を反映させ、より良い街づくりを進めるよう努める。
特に要望の多かったのが交通弱者に対する問題。地区内には大きな病院や商店がなく、公共交通機関も少ないので、運転の難しい高齢者には不便が多かった。
そこで曜日ごとにコースを決めてスーパーや病院への送迎をする「プチ送迎ボランティア」を始めた。運転手などは、この活動に賛同する地区住民のボランティアによって行われている。
また生涯学習を提供する場として設けられた「ものぐさ大学講座」は、有志で企画立案し、「枠にとらわれず、興味を持ったことをする」という方針の下、美術館巡り、上高地での自然観察会、新村の偉人をテーマに活動―など内容は多岐にわたる。このような機会を設けることで、人と人のつながりを広げ、新たな楽しみを提供する場にもなっている。
この地区では「新村のまつり」という本が発行されるほど数多くの「まつり」が執り行われている。地区内には神社仏閣の数は少ないが、祝殿や講、堂宇、年中行事などからくるお祭りが、地区、町会、同族、近所数軒など、大小さまざまな単位で行われている。
「まつり」という共同作業を通じ養ってきた「相互扶助の精神」と「感謝する心」が、新村地区の人々の固い絆と、強い郷土愛を育んできた。
新村地区は御伽草子に登場する「ものぐさ太郎」の伝承地とされている。そこで平成3(1991)年にものぐさ太郎像が建立され、毎年10月に「ものぐさ太郎祭り」が行われるようになった。
◎ものぐさ太郎のあらすじ
信濃国あたらしの郷というところに、ものくさ太郎という男がいた。名前の通り大変にものぐさな男で、一日中働くことなく人から食べ物を恵んでもらって生きていた。その後、国司の命で京に働きに出ることになり、そこでは心機一転まじめに働いた。和歌の才能にも目覚め、美しい妻をめとることができた。その後、太郎は由緒正しき身分の者であったことが分かり、信濃と甲斐の二国を与えられ、信濃に戻ってきた。ものぐさ時代に受けた恩義を忘れず、世話になった村人たちには領地を与え、平和な国づくりに尽力した。やがて太郎は「おたがの大明神」、妻は「あさいの権現」という恋の神様になった。
新村地区町会連合会長 山口 茂 さん
「昔信濃の国あたらしの郷に、不思議の男はんべりける。その名を物くさ太郎と申し候(そうろう)…」。御伽草子(おとぎぞうし)の文頭に出てくる新村とおぼしき記述です。
現在の新村にも、昔からのもの、新しいもの、大きいもの、小さいもの、いろいろなものがあります。ものぐさでない、「ずく」のある新村の住民が、これらの物を生かし、これからの「新村らしい新村」がつくり上げられていけばと思います。
【新村地区データ 】
人口 | 1,278世帯、3,333人(2015年6月1日現在) |
学校 | 新村保育園、松本大学、松本大学松商短期大学部 |
神社仏閣、史跡 | 專称寺、岩崎神社、小野神社、秋葉原1号墳、安塚古墳群 |
最寄駅 | 上高地線下新駅、北新・松本大学前駅、新村駅 |